御由緒
大阪夏の陣のあと、元和5年(1619)水野勝成公が西国鎮衛の要として備後の国主に赴任されるや、城を築き新たに福山と名付けて城下を整え、天和3年(1683)4代藩主勝種公により藩を挙げて備後福山の総鎮守の社として松廼尾山に建立されました。
東西に並立する社殿は、同一の様式、同じ規模によって造られ、両社それぞれに八幡大神様をお祀りする全国にも珍しい構成の神社です。
明治維新後、神社制度の改変があり、明治5年(1872)現東御宮を「延広八幡神社」、現西御宮を「野上八幡神社」と改称し郷社に列格、昭和3年(1928)には、県社に昇格致しました。
終戦後、社格制度は廃止され新たに宗教法人法が制定東西両御宮にそれぞれ同じ三柱の御祭神をお祀りすることから、一般に「両社八幡」と称され、また、厚い信仰と親しみを込め「東の宮」「西の宮」とも呼ばれています。
両社の創始については不明であるものの、古く穴の海と呼ばれていた波静かな内海の近く現福山城地に、二つのお宮が別々に奉祀されていたとの伝えがあり、もと「惣堂八幡」「延広八幡」と称した東御宮は、承保年中(1074~)に宇佐八幡宮からの勧請により町家の産土神として、また、もと「若宮八幡」「野上八幡」と称した西御宮は、永享年中(1429~)に鶴岡八幡宮からの勧請により藩士等の産土神として、福山の城中城下はもとより近郷近在より多くの信仰を集めたとされています。
また、神辺城主杉原氏や毛利輝元、福島正則氏等の信仰も厚く、神田の寄進など古くより多くの記録が残ります。
明治維新後、神社制度の改変があり、明治5年(1872)現東御宮を「延広八幡神社」、現西御宮を「野上八幡神社」と改称し郷社に列格、昭和3年(1928)には、県社に昇格致しました。
終戦後、社格制度は廃止され新たに宗教法人法が制定、神社本庁所属の宗教法人「延広八幡神社」、宗教法人「野上八幡神社」となり、さらに昭和44年(1969)、両社の法人格を合併、社名も宗教法人「福山八幡宮」と称し、神社本庁の特別待遇に属する別表神社に加列致しました。
昭和59年(1984)御鎮座300年大祭を記念して中央拝殿を新築、平成21年(2009)325年式年大祭に際しては、西御宮のお屋根葺き替え、彩色復元を始め、聰敏神社ほか境内社の改修、駐車場の新設など境内整備が行われました。